私がデートしたいと思ったおじいちゃん~本多立太郎さんの「戦争出前噺」

 旧日本陸軍の元兵士で、日中戦争やシベリア抑留の体験を「戦争出前噺(ばなし)」と題して語り続けてきた本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)さんが5月27日、腎臓がんで死去した。96歳だった。葬儀は近親者のみで営まれた。

 北海道小樽市生まれ。1939年以降、2度召集され、中国大陸や千島列島を転戦。敗戦後はシベリアに抑留され、47年8月に帰国した。

 金融機関を定年退職した後の86年以降、自らの戦争体験を「戦争出前噺」として各地に赴いて語り始めた。上官の命令で中国人捕虜を殺害した加害体験にも踏み込み、「戦争の恐ろしさは、生死に関して人を無感覚にさせることだ」と訴えた。中国やシンガポールなどにも赴き、約1300回を数えた。

 2008年には「9条世界会議」の呼びかけ人を引き受け、平和憲法の理念を世界の人に伝えようと活動。朝日新聞の「声」欄には、政治や世相を切る投稿が40本以上掲載された。

                     2010年6月1日 朝日新聞

 あんなにダンディな88歳の男を、私は他に知らない。

 2002年、今から8年前、当時88歳だった本多立太郎さんを、勤めていた大学にお呼びし『戦争出前噺』をして頂いたことがある。

 「聞き手がたった1人でも、出前を届けるように話しに出かける。」そんなところから、『戦争出前噺』と名付けられた。

 学生時代から、いくつかの講演会を企画し実現してきたが、本多さんの講演会ほど好評だったものはない。どんな立派な方をお呼びしても私語が絶えない学生達が、一言も喋らず本多さんの話に耳を傾け、講演時間が延び昼休みに突入しても、誰一人席を立つ者はなく、最後まで彼の話を聞き続けた。

 長身で細身の体に、ピッシッとスーツを着こなした姿は、88歳という年齢を感じさせないほど矍鑠としていた。

 静かに、淡々と語る自らの体験。
彼の言葉に、目にした事のない壮絶な光景が鮮明に瞼に浮ぶ。
その感触が手先に、体全体に宿る。

 終盤、ひときわドッシリとした彼の声で、私達は金縛りにあう。
怒りと悲しみと、そして生き延びた者の使命に満ちた彼の口からこう語られる。

「戦争とは別れと死、それ以外に何もない。」

 講演を前に前日入りされた本多さんを我が家に呼び、
友人・知人を招いて、車座になり、食事をしながら彼の話を聞いた。
昔、紙芝居屋をしていたこともあるそうだ。
『戦争出前噺』の原点はそこにあると話してくれた。

 翌朝も、我が家にお招きし朝食を一緒に取った。
当時一緒に暮らしていた、葵とアカリと本多さんと3人で囲んだあの日の朝食。あの時の写真が、どこかに残っていたはずだ。

 本多さんには、多くの女性ファンがいた。
誰もが口をそろえて、彼を「ダンディ」だという。
でも、それは本当。
「あの、デートして頂けませんか?」
80を超えた男性にそんな気持ちを抱いたのは、今のところ本多さんだけだ。

 加入する労働組合の事務所でも、彼の死が話題に上った。
60代後半の女性が、こう言った。
彼女も反戦活動に熱心な方だ。
「あたしら、本多さんみたいになろうと思ったら、あと30年は生きなあかんで。あと、30年やで~。えらいこっちゃ!ハハハハっー!」と笑った。彼女は、確かに本多さんの存在に勇気をもらい、励まされている。

 こんな時に、また大事な人を亡くしたけれど、
「生き切る」ってこういうことか、そんな生き様を見せてもらった気がする。

 悲しいって気持ちより、
「託されたなぁ。」と感じている。

本多さん、
あなたの人生に、ほんの少しでも交わらせて頂く機会があったこと、
心から感謝します。
本当に、本当にお疲れ様でした。
そして、最後の最後まで伝え続けてくれて、ありがとうございました。

つばき

by bigcamellia814 | 2010-06-02 21:30 | TSUBAKIng Times

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